2015年2月18日

2015年02月06日,東京ラカン塾精神分析セミネール 2014-15年度 第14回の要旨

『精神分析の四つの基礎概念』第四章: 徴示素の網について


第四章では Lacan の話題があちらこちらへ跳ぶので,聴衆ないし読者にとっては彼の話に付いて行くのが困難ですが,我々にとって Ariadne の糸となるのは常に,精神分析がかかわる領野の根本的な構造,主体の存在の真理の現象学的構造です:



第四章においても Lacan は,主体の存在の真理を代表する徴示素 a を,切れめ coupure, または,裂けめ fente として提示しています.したがって, 主体の存在の真理の現象学的構造をこう書き換えておきましょう:


この主体の存在論的構造は,静的なもの,固定化されたものではなく,而して,開きと閉じの拍動 [ pulsation, battement ], ないし,ゆらぎ [ vacillation, fluctuation ] を伴っています.すなわち,存在欠如 manque à être としての主体は,口を開いた切れめないし裂けめをとおして瞬間的にうかがわれることがあっても,裂けめはすぐさま再び閉じられてしまい,主体は消え去っていまいます.

この主体の消失を言い表すために,Lacan は動詞 évanouir または disparaître を用いています.

夢解釈における Freud のデカルト的懐疑は,精神分析の面接において物語られる夢の顕在内容を了解しないことに存します.つまり,了解され得るものとしての夢の顕在内容は,棄却されます.それによって生ずる空き地,切れめそのものとしての徴示素の座,Heidegger の用語で言うなら Lichtung [朗場]をとおして,真理の座に Traumgedanke : 「夢思考」があるという確実さが得られます.




Freud が夢思考と呼んだものは,分析家の言説において真理の座に仮定される知 S2 にほかなりません.

前回見たように,デカルト的主体は hysterica の言説において能動者の座に位置する $ です.そして,性別の論理式の女の側を為す式を hysterica の言説の構造へ代入することにより,の言説 [ le discours de La Femme ] の学素が得られます:



左上の能動者の座に位置する Ø("x) F(x) は,("x) F(x) により規定される集合,すなわち,男の集合 { x | F(x) } の外部を成す穴を示唆しています.

その穴こそ,hysterica désir insatisfait, 満たされない欲望,欲望不満足であり,かつ,Lichtung, 朗場としてのデカルト的主体です.

学素 $ は,欲望不満足の学素であり,かつ,朗場の学素です.

の言説は,デカルト的主体の言説であり,朗場の言説です.

hysterica の言説は,能動者の座に欲望不満足の穴を開ける限りにおいて,精神分析の可能性の条件を成します.同様に,デカルト的主体の言説は,能動者の座に朗場を空ける限りにおいて,近現代的意味における科学の可能性の条件を成します.

左下の真理の座に位置する Ø($x) ØF(x) は,の言説においては真理の座に位置する仮象は何も無いことを示唆しています.

男の側においては,つまり,強迫神経症者の言説としての大学の言説においては,真理の座には仮象としての父の名が位置しています : ($x) ØF(x).



それに対して,の言説においては,真理の座は,文字どおり,空座です.それは,抹消された存在 Sein の処有,Ortschaft des Seins です.

仮に,穴を形式化する学素を sinthome Σ とするなら,この等価性が措定されます:



つまり,の言説,le discours de La Femme は,精神分析の可能性の条件として,精神分析の原点,精神分析の源初を成すと同時に,精神分析の終わりである死からの復活としての sinthome をも成します.原点と終点,源初と終結は,本同的である,と言えます.

« L’avenir de l’homme est la femme »[男の未来は女である]と Aragon Le Fou d’Elsa のなかで詩っています.つまり,精神分析の終結としての sinthome の構造はの実存構造と同じなのです.

Hysterica の場合も,存在の真理の座に残存する仮象 a をすべて能動者の座へ呼び出して,つまり,まずは分析家の言説へ移って,そしてそこにおいて a を分離することによって,sinthome の構造としてのの構造へ至ることになります.

p.45 Lacan Freud の前ソクラテス的金言 : « Wo Es war, soll Ich werden », 「何かの在りしところに我れが成るべし」に注釈を加えつつ,こう言います:

« le Ich est, sous la plume de Freud, – quand on sait, bien entendu, reconnaître sa place –, le lieu complet, total du réseau des signifiants. »
「我れ das Ich は,Freud の筆のもとでは, 勿論,我々がその座を認めることができるなら ,徴示素の網の完全な,総体的な場処である.」

そこで Lacan が用いている「総体的」という語から,Heidegger の言う das Seiende als solches im Ganzen : 「存在事象そのもの全体」が想起されるでしょう.それは,存在 Sein とは区別されるべき存在 Sein です.つまり,Freud Ich Sein と等価であると見なされ得ます.

Heidegger « Es gibt Sein » [何かが存在を与える]と公式化しました.Es Sein のことです.したがって,存在の真理の現象学的構造


にしたがって,こう形式化され得ます:


この werden sich ereignen と等価です.何かの在りしところに,Ereignis [自有]が発起すべし.それが,精神分析の倫理です.

réseau は「網」,英語では net ないし network ですが,réseau des signifiants という表現は,Lacan のもうひとつ別の表現 : chaîne signifiante を思い起こさせます.一方で,徴示素の網,他方で,徴示素の鎖ないし連鎖.両者はともに a を指しているはずですが,力点の置き方は異なるように見えます.

網には穴が開いています.網で何らかの客体を捕獲することはできますが,穴を通り抜けてしまうので取り逃されてしまうもの,捕獲不可能なものがあります.つまり,一方に仮象 a, 他方に実在 φ .

それに対して,1955-56年に書かれて Écrits の冒頭に収録された書:『“盗まれた手紙”についてのセミネール』では,matérialité du signifiant [徴示素連鎖の物質性] (Écrits, p.24) が強調されています.

同じ箇所 (Écrits, p.24) において Lacan « le signifiant matérialise l’instance de la mort »[徴示素は,死の機関を物質化する]と言っています.このことは,学素



により形式化され得ます.実在 φ は,抹消された存在として,死でもあります.

Écrits, p.11 では,反復は insistance de la chaîne signifiante [徴示素連鎖の固執]に関連づけられています.つまり,その物質性における徴示素の存続が反復の原理である,と考えられています.症状の持続はそこに起因します.

それに対して,1964年の Séminaire XI においては,反復は実在と関連づけられています:

Le réel est ce qui revient toujours à la même place à cette place où le sujet en tant qu’il cogite, où la res cogitans, ne le rencontre pas (Séminaire XI, p.49).
実在は,同じ座へ常に回帰するものである.[その際,]実在が常に回帰してくるところの同じ座は,思考するものとしての主体 res cogitans が実在に出会わないところの座である.

一方に,res cogitans [思考するもの]としての主体,すなわち,徴示素 a. 他方に,主体の存在の真理としての実在 φ. 実在 φ が常に回帰してくる座と,徴示素 a の座とは,両者が互いに出会わないように分裂しています.主体の存在の真理の現象学的構造の学素において上の座と下の座とを分け隔てる横線は,その分裂を差し徴しています:



1955-56年の時点では,力点は徴象に置かれています.それに対して,1964年には力点は実在に置かれています.この Lacan の視点の変化を画するのが,1959-60年の Séminaire VII 『精神分析の倫理』です.

東京ラカン塾精神分析セミネール2014-15年度第16回

恰好の Lacan 入門書 Séminaire XI 『精神分析の四つの基礎概念』の読解を続けましょう.
序章と第一部「無意識と反復」の四つの章に続いて,第二部「客体 a としてのまなざしについて」に入ります.
220日は第二部の最初,第六章「目とまなざしの分裂」を解説します.
テクストは各自持参してください.フランス語原書入手困難な方は info@lacantokyo.org へ御連絡ください.
会場は,文京区民センター 2階 2C会議室,
時間は 19:30 - 21:00 です.

2015年2月10日

2015年02月07日と08日の精神分析 Tweeting Seminar より: 幾つかの質問に答えて.

幾つか御質問をいただいていますのでお答えして行きましょう.

まず最初の御質問: なぜあなたはラカンを研究する学者たちによるコンセンサスを得ていないラカン用語訳語を使うのか?

この御質問には当惑してしまいます.いったい,「ラカンを研究する」とはどういうことですか?日本に「ラカンを研究する学者」はいるのですか?学者とは大学人のことですか?

「ラカンを研究する学者」という表現で思い浮かぶのは『エクリ』の邦訳者たちです.つまり,みづから精神分析を経験する内的必然性を全く持たないまま Lacan を邦訳した大学人たちです.

Lacan は『エクリ』の前書きで,彼らは「純粋状態におけるスノビズム」にある,と言いました.つまり『エクリ』邦訳者たちは,彼らにとっては精神分析が有する真摯な人間的意義は全く空虚であるがままに,翻訳のためだけに Lacan を翻訳したのです.

そのような純粋スノッブである彼らの翻訳作業の成果がどのようなものであり得るか,Lacan は予測していました.ですから彼は日本の読者に,この前書きを読んだらすぐに『エクリ』を閉じなさい,と通告したのです.

Lacan にそのようなことを言われてもなお『エクリ』を出版した人々にはまったく恐れいるほかありません.

『エクリ』のおかげでいまだに日本では Lacan は支離滅裂だと思っている人々がいます.支離滅裂なのは Lacan ではなく,邦訳者たちです.

もし今,精神分析そのものに真摯な関心を持たないままに,例えば論文を生産するために「ラカンを研究する学者」が日本にいるなら,Lacan が勧めているとおり,さっさと Lacan の本を閉じるのがよいでしょう.しかも,そのような人々が読んでいるのは,Lacan の原文ではなく,邦訳か英訳か,あるいは Zizek などが英語で引用している断片でしょう.そんなものを読んでも無駄です.

Lacan は精神分析の実践を基礎づけるために教えました.精神分析の実践を抜きにして Lacan のテクストをいくら読んでも,その意義を読み取ることはできません.

「ラカンを研究する学者」が日本にいるとしても,Lacan の読みに関してそのような人々との「コンセンサス」は必要ありませんし,そもそも無駄なことです.

次の御質問 : objet a semblant である,というのは Lacan が言っていることではない.あなたの勝手な解釈ではないか?


この御質問を下さった方は,Séminaire XX Encore を御自分でお読みになったとおっしゃっています.もしそうであるなら,Encore の第 VIII 章をもう一度よくお読みなさい.冒頭にこの図が掲げられている章です:


まずこの図で,三角形の底辺に当たるところに何と書かれてありますか? semblant, その下に a と書かれてあります.

そして,第 VIII 章のなかで Lacan は三回,a のことを semblant d’être : 「存在の仮象」と呼んでいます.


この学素は,Lacan の教えの最も根本的な学素として考案されたものです.主体の存在の真理 φ a が代表・代理する,という構造をこの学素は形式化しています.

a は,image であったり,signifiant であったりしますが,いずれにせよ,真理そのものではない何かです.それを Lacan semblant, 仮象と呼びました.

そして,a が代表しているのは主体の存在の真理ですから,Lacan a を存在の仮象と呼んでいるのです.

あなたは,Encore の第 VIII 章に三回出てくる semblant d’être という表現にまったく気がつかなかったのですか?それでは残念ながら Encore を読んだとはとても言えませんね.

三つめの御質問 : jouissance objet a は全く別概念ではないか? plus-de-jouir を持ち出してきて両者を接合させようなどというのは,あなたの我流の誤った解釈ではないか?

この御質問者には,Lacan による plus-de-jouir の定義を参照するようお勧めします.Séminaire XVI, XVII, Radiophonie などのテクストに提示されています.

Lacan は原文ですべて読んだ?では,もう一度,否,何度でも,よく読み直してください.

Lacan plus-de-jouir を新たに提唱したのは,まさに jouissance a との関連を明確にするためにほかなりません.


この図を見てください.Séminaire XVII, p.105 に提示されているものです.図の前後の文も一緒に示しておきましょう.おわかりのように,支配者の言説の各項が,記号ではなく,通常の文字で表記された用語で書かれています.左上が支配者徴示素,左下が主体,右上が知,そして右下が悦です.


記号で表記された支配者の言説と見比べれば,右下の座に位置する a jouissance, 悦という用語で置き換えられているのがおわかりでしょう.

Lacan jouissance, 悦の概念を導入したのは,Freud Lust の概念を思考するためです.

Freud Lust をこう定義しています : eine Triebbefriedigung ist immer lustvoll. 本能満足は常に Lust に満ちている.

そのような Lust の概念のなかに Lacan は,ひとつには plaisir 快,もうひとつには,快の彼方としての jouissace 悦を区別します.それは,Freud が快原則の彼方と呼んだ死の本能の概念をよりよく把握するためです.

jouissance という用語は1950年代のテクストにも見うけられますが,まず押さえておくべきは,1960年の『主体のくつがえし』のなかのふたつの命題です:

La jouissance est interdite à qui parle comme tel. (Écrits, p.821).
悦は,語る者そのものには禁止されている.

Φ (grand phi), [ c’est ] le phallus symbolique impossible à négativer, signifiant de la jouissance. (Écrits, p.823).
Φ (ギリシャ語の大文字の phi),それは,負化不可能な徴象的ファロスであり,悦の徴示素である.

次に,1969-70年の Séminaire XVII, p.85 のこの命題:

la fonction du plus-de-jouir est apportée en suppléance de l’interdit de la jouissance phallique.
剰余悦の機能は,ファロス悦の禁止の代補においてもたらされる.

1960年には単純に「悦」と呼ばれているもの,そして,1969-70年には「ファロス悦」と呼ばれているものは,いったい何でしょうか?

注目すべきは「禁止」という語です.それは,「性関係は無い」の言い換えです.

「性関係は無い」は,我々の学素 φ により形式化されます.

かくして,1960年の公式: “Φ は悦の徴示素である” は,この構造を言い表していると読解されます: 


そして,1969-70年の「剰余悦はファロス悦の禁止の代補として機能する」は,この構造を言い表している,と読解されます:


Lacan Séminaire XVI, XVII において a plus-de-jouir, 剰余悦という新たな定義を与えます.なぜなら,a は症状の徴示素であり,そして,症状においては代理満足がかかわっているからです.不可能な性関係の悦の代補・代理,それが剰余悦です.

一方に,症状を始めとする無意識の成形において実現されている悦があり,他方に,不可能な性関係の悦があります.両者を明確に区別するために,Lacan は前者を plus-de-jouir, 剰余悦と呼ぶことにしました.そして,無意識の成形の徴示素 a を剰余悦と定義しなおしたのです.

もしあなたが「ラカンを研究する学者」であるか,またはそうなろうとしているなら,まず,精神分析を経験する内的必然性を持っているか否かを自問してください.それが無いなら,さっさと Lacan の本を閉じるのがよいでしょう.

Lacan のテクストを翻訳する前に,まず,Lacan が何を問うているのかをよく考えてください.

Lacan が数十年にわたって問い続けているのは,精神分析においてかかわる主体の存在の真理に関する問いです.

もしあなたが,精神分析においてかかわる主体の存在の真理の問いをみづからの問いとして真摯に問う内的必然性を持っていないなら,つまり,みづから精神分析を経験しようという内的必然性を持っていないなら,Lacan を読解することはできません.いわんや,Lacan の翻訳の準備に要する膨大な努力はあなたにはとてもできないでしょう.

そのようなあなたが Lacan を翻訳しても,『エクリ』の二の舞になるだけです.邦訳『エクリ』が与えたのと同じ有害な影響を日本語読者に与えることになるだけです.

次の御質問: あなたは Lacan の学素 Ⱥ S(Ⱥ) という形ではなく,Ⱥ 単独で用いているが,それは Lacan が言っていることではなく,あなたの勝手な解釈ではないか.

御質問者は,Lacan を原文ですべて読んだと自慢する前に,彼の最も有名なテクストのひとつ,『主体のくつがえし』をよく読み直してみてください.Ecrits, p.823 にこう書かれてあるのが目に入っていないようですから.

le désir institue la dominance, à la place privilégiée de la jouissance, de l’objet a du fantasme qu’il substitue à l’Ⱥ.
欲望は,悦の特権的な座に,幻想の客体 a の優位を設定し,客体 a Ⱥ の代理とする.

Lacan のこの言葉にしたがって,我々は,他 A のなかの欠如 Ⱥ a が代理するという構造の学素を考案することができます.それは全く Lacan に則した学素です.


そして,他 A のなかの欠如 Ⱥ は,ファロスの欠如 φ と等価です:


したがって,この等価性も成り立ちます:


御質問者に足りないのは真摯さです.Lacan を読むなら,もっと真摯にお読みなさい.

「精神分析はフィクションであり,フロイトが仕掛けたジョークだ」というあなたの言葉は,生死のかかる状況を単なるお笑いぐさにする「クソコラ」と同質のものです.

つまり,純粋状態におけるスノビズムです.

あなたが「軽快なフットワーク」と言うとき,その言葉は,あなたにとっては人間の実存の意義がすべて空ぜられているというニヒリズムを証しするものにほかなりません.

存在の深淵を見つめる真摯さが無いなら,Lacan を読むのをやめ,大自然のなかでお好きなようにすごしなさい.それによってあなたはニヒリズムをやりすごした気になるでしょう.あなたにはそれで十分です.

我々,精神分析と Lacan に真摯にとりくむ者たちは,精神分析を,Heidegger が形而上学の満了と規定する現代のニヒリズムを超克するひとつの途として実践して行きます.それは,今を生きる者にとって最も重大な,真剣に取り組むべき課題です.

2015年2月4日

藤田博史氏に対する小笠原晋也による批判,精神分析 Tweeting Seminar より.

26 January 2015

まず,藤田博史氏の123日晩から24日未明にかけての Facebook 上での発言の要旨を紹介します:

Lacan Séminaire XI を読んでも,わたしには得るものはさしてありませんでした.単なる Freud の言い換えにすぎません.今となっては古すぎます.
いまだに Lacan から得るものがあると思い込んでいる人々に警告せざるを得ません.Lacan の言っていることを無批判に受け容れることはとても危険です.
Lacan を翻訳するとき,訳語はどうでもよいのです.Lacan の用語の定義にこだわり,教条的になってくると危険です.
réalité [現実]と réel [実在]は,ともにラテン語の res に由来するが,Lacan において両者は峻別される,という話は,ほとんど腐敗したラカン派の常套句です.
精神分析を生業とする者であれば,Freud をドイツ語で読むことは絶対に必要です.
わたしは,学生時代に指導者にドイツ語を徹底的に鍛えられたおかげで,33歳までに Freud はほぼすべてドイツ語で読みました.拙著『精神病の構造』で引用した Freud はすべて Gesammelte Werke から直接訳出したものです.
Lacan に関しては,フランスで手に入るものはほとんどすべて目を通しています.
その上で言えることは,今となっては古めかしい構造主義に根ざした Lacan の思考方法そのものがダメです.
構造主義は,いうなれば,驚くほど単純な算術で構成されており,スカスカのザルのようなもので,そこからは大事なものがポロポロこぼれ落ちてしまう.
むしろここで必要なのは,複素関数の積分のような次元です(例えばフーリエ変換).
Lacan の後期思想の特徴であるトポロジーも,4次元以上で解けてしまいます.
さらに言えば,主体という発想そのものが,かなり疑わしいフィクションにすぎません.
主体は,基本的な二次元情報が時空化(多次元化)される時に生じる効果であり,そのような効果によって生じる幻影のひとつなのです.
ラカンがどうしてもうダメなのか,近いうちにまたフジタゼミで詳細にお話ししたいと思います.」


さらに,21世紀のルソー主義者,藤田博史氏は Facebook 上で熱く語り続けます.藤田博史氏の 25日晩から26日未明にかけての Facebook 上の発言を紹介しましょう.投稿者 A 氏の言葉に対する藤田博史氏の回答です:


投稿者 A 氏:「治療行為やそれが基づく理論がどういう思想の枠組みでなされているのかを検討の遡上に載せること,もっといえば,目の前の苦しむ人を助けるという倫理がどのような内実であるのかを検討の遡上に載せる思索も必要ではないでしょうか? たとえば,そういうことを Foucault がしましたね.」
藤田博史氏:A さん,残念ながら,理屈は不意に訪れる危機的状況に対して無力です.例えば,駅のプラットフォームから誰かが線路上に落ちたのを見て,咄嗟に飛び降りて助ける.あるいは,船から落水した人を瞬時に飛び込んで救出する.これがわたしのいう倫理です.さらにいうなら,救出と引き換えに自らの命を失うこともあります.これも理屈が介在しない究極の倫理,つまり献身です.
ついでに言っておくと,わたしは Foucault をまったく評価しません.単なるキモいオヤジ(オネエ?)です(笑).(…) 
近いうちにフジタゼミで初期から晩年に至るまでのラカン思想の変遷と内容について総括的なお話をしましょう.タイトルは「予備知識がなくても二時間でラカンのすべてがわかる」です(笑).ラカンって所詮その程度です(笑).眉間にシワを寄せて難しいことを論ずる必要はまったくありません.(…) 
「二時間」は一時間にしようと思ったのですが,少し詳細に説明しようと考えて二時間にしました.ラカンの思想内容は実はラカン固有の思考法を知ると「なあんだ」という種明かし的な筋道がわかると言うことです.... 
いずれにせよ,ラカンを過大評価しないことが大切です.
それから以前も言いましたが,第七回セミネール『精神分析の倫理』全体をラカン自身は否定していますよね.あまりレフェランスとして出さない方が良いですよ.(…) 
『アンコール』の翻訳は既に一通り終わっています.訳者の感想を述べておくと「ラカン・マジック」とでもいうべき知的催眠の罠が,ある時は形式,ある時は内容として,随所に蒔かれており,それに読者は酔ってしまうのだろうと思います.(…) 
わたしが提唱している「ホログラフィック精神分析」の革新性が理解される頃にはわたしはこの世にいないのかもしれない...(苦笑).(…) 
[分析家が]いわゆる教育分析を受けているかいないかという古くて新しい問題は,その分析家が分析家としての機能を保持しているかどうかのメルクマールにはなりません. 
わたし自身も教育分析をまったく受けたことがないわけではありませんが,教育分析をする人がお粗末な場合が殆どです.サンブラン [ semblant : 仮象 ] だとばれてしまうのです(苦笑). 
それよりも,以前からわたしが主張している「大自然こそが偉大な分析家」というテーゼの意味を理解していただけることを願っています. 
一つ重要なことを付け加えておきます.それは,ラカンの精神分析を忠実に実行すると,クライエントの自殺を誘発する可能性があるということです. 
長期にわたって精神分析を受けている著名な方を何人か知っていますが,わたしには「精神分析の罠に引っかかって人生を無駄にしている」ようにしか見えません. 
むしろ精神分析はクライエントをダメにしているようにすら見えます.これをひと言でいうと「精神分析はクライエントを別の仕方で去勢する」となるでしょう. 
その証拠として,長期にわたって分析を受けている人の殆どが男性です.男性に偏っているのです. 
ここに,精神分析が仕掛けている罠の秘密が隠されています.精神分析に入れ込んでしまう心理は,一神教的なファナティズムと無縁ではありません.知らないうちに連綿と続いているヤハウェの亡霊に支配されているのです. 
そうではなく,人生はもっと朗らか,多世界的,多神教的なものだと知るべきでしょう.何よりもまず,大自然がそれを教えてくれています.(…) 
自分の分析家が誰だったか言いたがる人はそれだけでダメです.恋愛の暴露自慢話に似ています.わたしは30代の頃にとある人に教育分析を数回受けましたが,誰だったかは口が裂けても絶対に言いません(笑).(…) 
わたしの場合,早々と分析家に失望してしまったので...」.

まず予備的にひとつ指摘しておくなら,藤田博史氏は差別主義者と homophobe の本性を露呈しています:「わたしは Michel Foucault をまったく評価しません.単なるキモいオヤジ(オネエ?)です(笑).」

ここで,マタイ福音書 12,31-32 からイェスの言葉を引用しましょう:

「あらゆる罪,あらゆる冒涜は赦される.しかし,霊気[聖霊]に対する冒涜は赦されない.或る者が人の子に逆らう言葉を発しても,それは赦される.しかし,聖なる霊気[聖霊]に逆らう言葉を発するなら,それは,この世においても来るべき世においても赦されない.」

愛の神を説くイェスの言葉としては,驚くべきものです.或る神父様が説教のなかで,神の恵みを拒否してはならないということだ,と解説したことがありましたが,納得はできません.すぐさま了解しようとしないで,謎は謎として,神秘は神秘として,こころのなかであたため続けておきましょう.

Lacan の言葉にもいまだにまったくわからないことが多々あります.たとえば Télévision のなかのこの文 : canaille には精神分析は拒否されねばならない.なぜなら精神分析によって canaille はけだものになるから (Autres écrits, p.543)

canaille とは,倫理的に言って非常に蔑まれるべき者のことです.下司(げす)と訳すこともできるでしょう.

しかし,悪の根源は抹消された 存在 φ そのものですから,我々は皆,原罪を負う罪人なのです.むしろ自分の罪を認め,自分を悪と認めることは,罪の赦しのために必要不可欠なことです.

canaille の対極に位置づけられる Lacan の概念は,Bien-dire[善言]でしょう.「善言」とは,存在 を解脱実存として守護すべく,存在 に自有されて,存在 の宿として実存を生きることです.

そのような実存様態を Lacan は聖人になぞらえました.

ですから,canaille の反対概念は聖人である,と言ってもよいでしょう.

今一度 canaille の語義を辞書で確認すると,vulgaire, avec une pointe de perversité とあります:若干倒錯ぎみの下品な者.

とすると,canaille は分析によってけだものになる,と Lacan が言うとき,この「けだもの」は倒錯者のことを差し徴しているのかもしれません.どのような倒錯者かははっきりわかりませんが,例えば,自己中心的な sadique を思い浮かべてもよいかもしれません.

それまで可能的にすぎなかった性倒錯的構造が精神分析を経験することによって顕在化し,確固たるものとなってしまう.これは考えられることです.しかし,精神分析に導入するための予備面接の段階で如何にしてそのことが予想されるのかは,今のところ明確にはわかりません.

また,精神分析の周辺には,妄想形成の可能性を有する者が引き寄せられます.そのような者は,精神分析から出発して,奇妙な独自の理論的体系を作り上げる傾向があります.たとえば Wilhelm Reich (1897-1957) の名を思い出せばよいでしょう.(中略)

藤田博史先生の精神分析に関する発言はこのところかなり穏当を欠いたものになってきています.もはや見過ごすことはできなくなってきました.先ほど述べたことのなかで若干の示唆はしましたが,もう少し具体的に指摘しましょう.

まず,Lacan Séminaire VII 『精神分析の倫理』全体をみづから否定している,という藤田博史先生の意見は,Séminaire XX Encore の冒頭での Lacan の発言の完全な読み間違いに基づいています.

そこにおいて Lacan « il m’est arrivé de ne pas publier l’Éthique de la psychanalyse » と言っています.直訳すると,「精神分析の倫理を出版しないことが,わたしに起こった」.いつ?

Jacques-Alain Miller によると,Lacan は一時期みづから『精神分析の倫理』の Séminaire のテクスト編纂を試みていました.

もし Lacan がその作業を断念したのだとすれば,その理由は複数考えられます.例えば,その後の思考の展開を『精神分析の倫理』のなかにもりこみたくなってしまうから.

1972年の時点から見れば,10年以上前に行ったセミネールで言ったことは不十分に見えて当然です.特に,1959-60年の時点では Lacan transgression[違反]という概念を重視していました.これは,構造


において a から φ への越境の動きを強調することです.つまり,a から出発しています.このことは,Heidegger が『存在と時間』において Dasein から出発していることと同等です.

しかし,その後 Heidegger が Dasein からではなく,存在 (Seyn) そのものから出発すべく方向転換したのと同等に,Lacan も a からではなく,φ そのものから出発します.このことは,Lacan の教えにおいて重心が symbolique から réel へ移ったことにうかがえます.


ですから,10年以上前に行ったセミネールのテクストを自分で編纂しようとすると大幅に手を入れたくなってしまう誘惑が Lacan にとってあまりに強かったのかもしれません.ですから,Lacan はその作業を Jacques-Alain Miller に任せました.


Jacques-Alain Miller は,『精神分析の倫理』を出版するなと Lacan から要請されたことは一度も無いはずです.彼がそんなことを言っているのを聞いたことも読んだこともありません.


27 January 2015


藤田博史氏は,Lacan に関して事実に反することを発言し続けています.


藤田博史氏は 1月27日,Facebook 上でこう言いました:

L’Éthique de la psychanalyse は Lacan の強い意思により,生前に出版される事はありませんでした.部分修正などではなく出版しないという決断であることが重要なのです.つまりすべてをお蔵入りにさせたのです.しかし Miller がその意思に反して出版してしまった.それが我々の手元にある Miller 版の L’Éthique です.

このような藤田博史氏の発言に対して,我々は,Lacan の Séminaire XX Encore, p.50, 1973年02月13日の講義から引用しましょう:



[精神分析の倫理のセミネールにおいて]倫理についてわたしが言ったことの速記録にもとづいて書かれたもの,タイプされたものは,当時,わたしを国際精神分析協会の注目の的にしようとしていた者たち[Lacan を排除したいと思っていた分析家たち]にとっておおいに利用価値のあるものになるとわたしには思われた.結果は周知のとおりである.彼らは,ともあれ,精神分析が有する倫理的なことがらについてのわたしの考察は沈没してしまわぬよう望んでいた.わたしはぽしゃり,『精神分析の倫理』は水面に浮かんだまま — そうなればしめたもんだ,と彼らは思っていた.取らぬ狸の皮算用の一例である.[なぜなら]その『精神分析の倫理』の出版をわたしは阻止したから.わたしはそれを拒否した.わたしを欲しない人々を説得しようとは思わないがゆえに. 
説得 [ convaincre ] してはいけない.精神分析の特質,それは,説き伏せ [ vaincre ] ないことである — 相手がバカ [ con ] であろうとなかろうと. 
ともあれ,それ[精神分析の倫理のセミネール]は,つまるところ,非常に出来の良いセミネールである. 
先ほど言及した皮算用には加わっていなかったある者 [ Mustapha Safouan ] が,当時,何の下心も無く,心をこめてテクストを作ってくれた.[精神分析の倫理のセミネールを]一冊の書にしてくれたのだ.[ただし]それは彼の著書である.勿論,彼は,それを自分のものにしようとは夢にも思わなかった.もしわたしが欲したなら,彼はそれをそのまま出しただろう.[だが]わたしは欲しなかった. 
それ[精神分析の倫理のセミネール]は,多分,今日,すべてのセミネールのなかで,わたしがみづから書き直して,ひとつの書にしたい思っている唯一のものである.とにかく,何か一篇書かねばならない.そのセミネールを選ばない理由は無い.

以上から明らかなように,Lacan は『精神分析の倫理』の出来を自分でも肯定的に評価しており,みづからテクスト編纂して出版するつもりでした.そのことを初めて表明したのは1969年 2月26日のセミネールにおいてです.そして,先ほど引用したように,Encore のセミネールで1973年 2月13日,『精神分析の倫理』を自分で本にするつもりだと Lacan は言っています.


Encore の冒頭をもう一度読み直してみましょう : « Il m'est arrivé de ne pas publier l’Éthique de la psychanalyse. En ce temps-là, c' était chez moi une forme de la politesse... »


ふたつめの文の時制,半過去は,いつのことをさしているのか?


En ce temps-là[当時は]は,Encore p.50 で述べられていることがらが起きた時点,つまり,Lacan が IPA [国際精神分析協会]から追放される暫く前のことをさしています.


先ほど引用した箇所,Encore p.50 で述べられていることによると,おそらく1962-63年ころ,Lacan は,精神分析の倫理に関する考察が IPA 派に利用されないよう,搾取されないよう,その出版を拒みました.


さらに,Lacan の唯一のエジプト人弟子 Mustapha Safouan が作成したテクストの出版も許可しませんでした.これはおそらく1960年代なかばころのことでしょう.


その代わりに,1968-69年ころ,『精神分析の倫理』をみづから本にして出版しようと思い始めました.その考えは1973年02月の時点でも維持されています.


ですから,Encore の冒頭,1972年11月の時点でも Lacan は Séminaire VII を出版するつもりであったと推定されます.


したがって,Encore の冒頭の文は,「精神分析の倫理を出版しないことにした」ではなく,「精神分析の倫理を出版する機会が過去にあったが,そのときはそうしなかった」と読むべきです.


そう読めば,それに続く言葉:「当時,わたしにおいて,それは一種の礼儀正しさだった」が意味において無理なくつながります.


かくして,藤田博史先生の Encore の当該箇所の読みは全く正しくないことが証明されました.


藤田博史先生が述べていることとは全く逆に,Lacan は『精神分析の倫理』で言ったことをみづから評価しており,積極的に本にして出版するつもりだったのです.


藤田博史先生は「第七回セミネール『精神分析の倫理』全体をラカン自身は否定しています」と言っていますが,それは完全な誤読です.


藤田博史先生は Freud も Lacan もほとんどすべて原語で読んだと自慢していますが,このような誤読をしていたのではしょうがありません.


藤田博史先生は「ラカンを読んでも得るものはありませんでした」と言っていますが,それは,彼が Lacan の文章を正確に読解することができていなかったからにほかなりません.


当然,藤田博史先生が翻訳出版する『アンコール』の翻訳の質もマユツバものです.フランス人に手伝ってもらったそうですが,フランス人なら Lacan を読めるというのであれば,フランスで誰も Lacan の読解にあんなに苦労はせずに済んでいたことでしょう.


藤田博史先生は,「ラカンがどうしてもうダメなのか近いうちにまたゼミで詳細にお話ししたいと思います」と言う前に,どうして自分のラカン読解がダメであったのかをよく反省すべきです.


28 January 2015


Séminaire XX Encore の冒頭部分についてより詳しく解説してみましょう.


1963年に国際精神分析協会 IPA からの Lacan の追放が決定される前,1959-60年に行われた Séminaire VII『精神分析の倫理』の出版ないし公表の動きがありました.それは Lacan 自身によるものではなく,Lacan を排除しようとする分析家たちの側からのものでした.


彼らはふたつの意図を有していました.ひとつは,『精神分析の倫理』のテクストを公表することによって Lacan の所説の「異端性」を IPA に対して証明すること.もうひとつは,逆に,『精神分析の倫理』における Lacan の所説を自分たちのために利用すること.


以上のことは,Encore, p.50 で Lacan 自身が指摘しています.


そのような悪意を持った者たちに対応するため,Lacan は『精神分析の倫理』のテクストの出版ないし公表を拒絶し,阻止しました.


その時点を正確に特定するのは困難ですが,いずれにせよ,1961から63年までの期間です.


Encore の最初の文は,したがって,こう訳せるでしょう :「かつて,わたしは,『精神分析の倫理』の出版・公表を拒否したことがあった.」


ふたつめの文で Lacan はこう言っています:「当時,わたしとしては,それは一種の礼儀正しさであった.」


それは,Lacan を利用しようとした分析家たちへの皮肉です.


après vous, je vous en prie[どうぞお先に]という礼儀正しさの言葉によって Lacan の謂わんとするところは,こうです: 精神分析の倫理についてわたしが教えたことを,あなたたちに利用させるわけには行かない.精神分析の倫理についてあなたたちが何か言い得ることを持っているなら,どうぞお先に言ってください.


「お先にどうぞ」は,1961-63年当時,Lacan を排除しようとしつつも彼の教えだけは利用しようとしたフランスの精神分析家たちへ向けられた皮肉です.


« après vous, je vous en prie » に続く言葉 « je vous en pire » で Lacan は prie を pire と言い換えています.


前年度の Séminaire XIX ...ou pire の表題に含まれている pire です.pire は「より悪く」.定冠詞の付いた le pire は「最悪」.1973年の Télévision の末尾にもこの語は登場します : du père au pire[父から悪へ].


je vous en pire は,je vous en prie[どうぞ]という定型表現の最後の語を anagramme で置き換えたものです.そこに pire[より悪く,最悪]という語を聴き取ることができるように.


悪とは何か?


善悪二元論で考えてはいけません.善悪の彼方 (Jenseits von Gut und Böse) を考えねばなりません.書かれたものとしての律法・法律によって規定される善と悪との対立を越えたところを考えねばなりません.


善悪の彼方,それは存在です.ただし,通常の意味における存在ではなく,φ としての 存在 です.


du père au pire[父から悪へ].


この場合,父は,律法を与えるものとしての父です.父の名 le Nom-du-Père と言い換えてもよいでしょう.


それに対して,悪は,存在,すなわち,ex-sistence としての実在 (le réel) のことです.


父から悪へ.その場合,父の名は,仮象的な徴示素としての父の名です.


仮象を罷免して,実在そのものへ至るべし.それが,精神分析の倫理です.


仮象的な律法を廃して,実在そのものとして自有発起すべし.


自有 (Ereignis) においてこそ,自由 (Freiheit) はその本有において実現されます.


仮象的律法が支配者の座に位置する異状 (aliénation) から,仮象の罷免により,自有 (Ereignis) へ至るべし.それが,精神分析の倫理です.


「父から悪へ」は,「異状から自有へ」と等価です.


そして,罪悪の赦しによる最高善,死からの復活による永遠の命は,自有において達成されます.悪と死へ至ることによって初めて,自有において,善と命が発起します.


ちなみに,藤田博史先生は,「ラカンの精神分析を忠実に実行すると,クライエントの自殺を誘発する可能性がある」と言っています.確かに,もし藤田博史先生が「ラカンの精神分析を忠実に実行」すれば,そうなるかもしれません.なぜなら,藤田博史先生は,罪の赦しと死からの復活の展望を持っていないからです.


罪の赦しと死からの復活の展望を持たぬままに,分離において悪と死そのものへ至らせれば,当然,自殺が起きます.みづから教育分析を経験していない者が分析家の言説の構造を利用して分析家として機能すれば,そのようなことが起こり得ます.


「わたしは30代の頃にとある人に教育分析を数回受けました」と藤田博史先生は言っていますが,その程度の分析経験では教育分析とは言えません.


彼が精神分析家を名のるのは勝手ですが,彼がみづから認めるとおり,彼が「ラカンの精神分析を忠実に実行すればクライエントの自殺を誘発」しかねません.


ですから,やはり藤田博史先生自身が認めているように,藤田博史先生には,Jean-Jacques Rousseau のように「自然へ帰れ」がふさわしいのです.それであれば,自殺を誘発してしまうことはありません.


そして,藤田博史先生が「ホログラフィック精神分析」と名づける精神分析ならざるなにごとか(Wilhelm Reich の Orgone 論に類似のもの)を熱く語っているだけであれば,自殺を誘発することはありません.


こころからそう願っています.


29 January 2015


「あらゆる罪,あらゆる冒涜は赦される.しかし,霊気[聖霊]に対する冒涜は赦されない.或る者が人の子に逆らう言葉を発しても,それは赦される.しかし,聖なる霊気[聖霊]に逆らう言葉を発するなら,それは,この世においても来るべき世においても赦されない.」 (マタイ福音書 12,31-32).


通常「聖霊」と訳される語は Sanctus Spiritus, Saint Esprit です.Spiritus は「霊」ではなく「気」,「精気」です.とりあえず「霊気」としましょう.


藤田博史先生の批判をもう少し続けましょう.彼はこう言いました:「長期にわたり精神分析を受けている人々は,わたしには,精神分析の罠に引っかかって人生を無駄にしているようにしか見えません.」


Lacan との精神分析の経験の証言を著書として出版した Pierre Rey も Gérard Haddad も,10年以上にわたり Lacan と分析をしていました.そして彼らは,その経験が如何に実存的に有意義であったかを証言しています.


Lacan の教えに基づく精神分析は,主体の 存在 の真理をめぐって展開されます.長年の努力の末についに 存在 の深淵に達したとき,死からの復活が成起します.そのような精神分析の経験は,語の真の意味において spirituel なもの,霊気的なものです.


藤田博史先生は,そのような精神分析の spiritualité を全く把握することができていません.彼には,人間の生の最も本自的なものを求める spirituel な試みは「人生の無駄」にしか見えないのです.


精神分析の spiritualité を揶揄する藤田博史先生は「Spiritus に逆らう言葉を発している」にほかなりません.「それは,この世においても来るべき世においても赦されない」ことである,とイェスは言っています.ただし,こう付け加えるべきでしょう: 心から悔いない限り.


藤田博史先生が Spiritus に対して犯した過誤に気づき,こころから悔い改めることができるよう,彼のために祈りましょう.


藤田博史先生はさらに,「精神分析に入れ込んでしまう心理は,一神教的なファナティズムと無縁ではありません.知らないうちに連綿と続いているヤハウェの亡霊に支配されているのです」と言っています.


つまり彼は,Lacan の言う Un (一,いち)について何も理解していないのです.


Lacan の言う Un (一,いち)は,「一神教」と言うときにかかわる「一」です.


そして,Séminaire XX Encore を翻訳しようとするなら,Lacan の言う Un (一,いち)が何であるのかを把握していなければなりません.


精神分析においてかかわるのは,主体の 存在 の真理です.


その真理とは,Heidegger の表現においては,「本源的な 存在 は己れを隠し,己れを離退している」ということです.Lacan はそれを「実在とは不可能在である」という命題で表現しました.


一神教と言うときの「一」は,YHWH の名そのものです.一とは,書かれないことをやめない不可能な名としての YHWH そのものです.そして,それは,己れを隠すことをやめない主体の 存在 の真理そのものです.


そのような意味での一(いち)をめぐってかかわっているのは,fanatisme ではなく,主体の 存在 の真理を求める最も真摯な spiritualité であり,最も spirituel な真摯さです.


つまり,分析を数回でやめてしまった藤田博史先生にまさに欠けているものです.


Lacan はどこかで「真摯 (sérieux) であることは,sériel であることだ」と言っています.sériel であるとは,série を成すことです.いつ終わるのかが始めから定められているわけではない精神分析の経験を構成する面接の継起を生きることです.


分析を数回でやめてしまった藤田博史先生に欠けているのは,そのような意味での真摯さです.


藤田博史先生は,「自分の分析家が誰だったか言いたがる人はそれだけでダメです」と言っていますが,それは,みづからそうすることはできないからにほかなりません.つまり,精神分析家としての正当性は自分には無い,と彼はみづから告白しているわけです.


藤田博史先生が精神分析家を自称しながらも精神分析の真理を見ることが如何にできていないかを指摘することは,ひとまずここまでにしておきましょう.


単なる哲学者や社会学者ならいざ知らず,彼のような立場の人が精神分析を公然と誹謗中傷するなら,それなりの反論を受けるであろうことは,彼もあらかじめわかっていたはずです.


小笠原晋也